こんにちは、結城ぱいんです。
はじめましての方は、ごあいさつもぜひ覗いてください。
発達障害があり、母親の過干渉でゲームもアニメも禁止されていた私は、同級生に馴染めずいじめを受けていました。
さて、いじめ問題について語るとき、必ずといっていいほど出てくるのが「いじめの傍観者は同罪」という言葉です。
この言葉について、元いじめ被害者としての視点から考えてみたいと思います。
傍観する人がいるからいじめがエスカレートするのは事実
そもそも、なぜ「いじめの傍観者は同罪」と言われるのでしょうか?
それは、周りの人がいじめを傍観するせいで、エスカレートしていってしまうからだと私は思います。
たとえば、いじめの中心的な加害者が5人いたとしましょう。
1人では、その5人に立ち向かうことができません。
しかし一般的に、クラスの人数は30人前後です。
そのため、残りの人たちが全員、その5人に立ち向かう勇気を持っていれば、きっといじめはすぐ終わることでしょう。
それなのに、周りの人たちが見て見ぬふりをするから、いじめがエスカレートして問題となるのです。
そういう意味で、いじめを見ても黙っている人が「同罪」とされるのでしょう。
いじめを傍観する人が多い理由
考えてみると、クラスでいじめが起きたとして、それを止めに入る勇気のある人はほとんどいないように思えます。
どうしていじめを傍観する人がこんなにも多いのでしょうか?
その理由について、当事者として実際に感じたことをもとに考察してみます。
いじめを見ているのが面白いから
まずは「いじめを見ているのが面白いから」というパターンです。
このパターンの人は、いじめを見て見ぬふりをするどころか、野次を入れて自分も一緒に楽しんだりします。
そのため、直接的に手を下していなくても、いじめ加害者と立場はほとんど変わらないといえるでしょう。
むしろ、教師などの大人が介入したところで叱られることもない分、悪質だという見方すらできます。
幸いなことに、クラス全員がこのパターンということはなかなか考えづらいです。
しかし、いじめられている当事者にとっては、黙っている人たちみんなに見放され、面白がられているように感じられるのも事実です。
そのため、いじめ被害者は非常に大きな孤独を抱えることになります。
自分がいじめられるのが怖いから
続いて「自分がいじめられるのが怖いから」というパターン。
個人的に、このパターンが一番多いように思います。
いじめに対して反対の声を上げると、加害者から報復されて、自分までいじめられてしまうのではないかという恐怖です。
いじめといっても、多少のからかいくらいであれば、気にせず止めに入ってくれる人もいるかもしれません。
しかし、エスカレートしたいじめは、学校生活を送る上で身の安全を脅かします。
実際、私は真冬に外のトイレで水をかけられたり、段差から突き飛ばされたりしたことがあります。
技術家庭の授業で、手にはんだごてを押し付けられたのはトラウマですし、ノートや教科書が捨てられるなどは日常茶飯事でした。
そして環境によっては、もっと深刻ないじめが発生する可能性もあります。
これでは、勉強に集中するどころか、安心して学校生活を送ることすらできません。
また、このレベルのいじめとなると、中心的な加害者がクラスの中で権力を握っているケースも少なくなく、周りの人が止めるのはさらに難しくなります。
傍観するのは正当防衛のようなもので、もはやどうしようもない状況のように思えます。
悪ふざけのように見えるだけだから
場合によっては、いじめが悪ふざけのようにしか見えず、周囲がそれをいじめと認識していないことも考えられます。
特に、実力行使のない暴言だと、側から見ると喧嘩と変わらないかもしれません。
しかし、それだからといっていじめの程度が軽いわけではなく、一方的に暴言を吐かれることは人格否定そのものです。
ただ、周りがいじめの存在に気づいていないだけというケースでは、被害者が友人などに相談することによって、解決に向かう可能性も考えられます。
その点はひとつの救いかもしれません。
いじめの傍観者は本当にいじめ加害者と同罪なのか
さて、ここで私が考えるのは「いじめの傍観者は本当にいじめ加害者と同罪なのか」ということです。
自分がいじめられていた時のことを考えると、黙って見ている人にまで責められている気分だったので、そういう意味では同罪なのかもしれません。
実際、いじめを面白がって見ている人は、完全に同罪といって差し支えないでしょう。
しかし、大人になっていろいろな経験をすると、びくびくしながら傍観している人のことを「同罪」と言うのはやりすぎではないかと思うのです。
たとえば、凶器を持った犯罪者に、自ら突撃していく勇気のある人はあまり多くないでしょう。
同様に、週の半分以上を学校で過ごす子どもたちにとって、いじめのターゲットになることは、生命線を絶たれることを意味します。
いじめを傍観することでエスカレートさせてしまったなら、結果的には同罪なのかもしれない。
しかし、自分の身の安全を優先するのは人間として当たり前のことであり、必要悪です。
それを同罪と言ってしまうのは、残酷ではないでしょうか。
いじめの傍観者を責めてもきっと何も解決しない
いじめの被害者が、傍観者を「同罪だ」と思うのは仕方ないことかもしれません。
しかし、大人の立場から「いじめの傍観者は同罪」というメッセージを発することは、善良な子に余計な罪悪感を植え付けることになりかねません。
そしてそれは、いじめを解決する責任を、子どもたちに押し付けていることに他ならないのです。
それよりは、先生が率先して「いじめは許さない」という態度を見せてほしかった。
私は今でもそう思います。
いじめについて、私は過去にこんな記事も書いています。
yuukipine-lifelog.hatenablog.com
子どもたちの勇気任せではなく、学校や教育委員会といったシステムによって、いじめをなくす社会になっていくことを願っています。
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